ヴォルデモートは優しい人だ。嘘だと思って笑いたい奴は笑えばいい。 無理に信じなくて良いと思うし、誰も信じて貰うつもりで言ってるんじゃ無い。 「はもう、我慢しなくて良いんだよ」 彼の瞳の中に幼い俺はどう映っていたのかなんて、それは今でもわからないけれど。 何も心配していない。怖くない。全てを忘れて、ただヴォルデモートの腕に頭を預けていたかった。 「明後日は誕生日だろう。何が欲しい?」 「全部!」 小さい時は、子供心ながらに打算もしていた。ヴォルは何だってしてくれる。叶えてくれる。 もしかしたら、この世の全てを望めば一つくらいはあるかも知れないと思っていた。 無くしてしまったたった一つの大切なものの代わりになるものが。 「全部か。またそれは、大きく出たな」 「絶対ね? 約束だよ」 その時ヴォルはなんと返事をしたのだろうか。 優しく髪を梳く細い指がくすぐったくて、小さく笑い声を上げながら身を捩ったことしか覚えていない。 「ところで、幾つになるんだ?」 「覚えてないの?」 ヴォルの口元に浮かんでいた、 誤魔化すような優しい微笑み。 「じゃあ、明後日までには思い出してね」 「ああ。約束するよ」 でも、結局答えは返ってこなかった。彼はその翌の日にいなくなってしまった。 赤ん坊に倒されてしまう前に、ヴォルはちゃんと思い出してくれたのだろうか。 あの日は、俺の八歳の誕生日だった。 「お久しぶりです。様」 ルシウスは固い表情で跪き、頭を垂れた。 彼の目の前にいる美しい青年の年の頃は二十歳。…まあつまり俺のことなのだけど。 ぎゅうっと彼に抱きつくと、耐え切れなくなったようにルシウスの口元がだらしなく緩む。 「ひさしぶり」 「しばらく顔をお見せできなくて申し訳ございません」 俺は笑みを浮かべ、コロンが微かに香るルシウスの首元に顔を埋めた。 柔らかなプラチナブロンドが頬を擽る。 「死んじゃったのかと思った。…最近、音沙汰なかったから」 「息子がホグワーツに入ることになりまして。その準備のせいで、色々と忙しかったものですから」 「じゃあ、俺のことを嫌いになったから連絡してくれなかったわけじゃないんだよね?」 「そんなわけないですよ。いつだって私は様が大好きですから」 ルシウスの手が、頬へと伸ばされる。顔に触れられるのが嫌で、俺は顔を僅かに逸らした。 ルシウスが悲しそうに顔を歪める。彼の行き場のなくなった手が、所在無さげに宙に浮いた。 「…忙しいとか言って、本当は俺のこと忘れてただけだったりして」 「いいえ。そんなことありませんよ」 「本当に?」 戸惑ったように「どうしたんですか?」と尋ねるルシウスの困っている様子が、愛おしい。 もっと意地悪を言って、困らせたい。慌てさせて、びぃびぃと泣かせてやりたい。 「俺のこと嫌いになったんだったら、ちゃんとそう言ってね」 ルシウスの眉が、苦しそうに歪んだ。瞳はうるうると、仔犬のように潤んでいる。 けれども嗚咽を漏らしそうになるのを我慢しているかのように、彼は一生懸命冷静を装っていた。 「様が大好きです」 「……」 「大好きです」 「……」 「だから、そんな悲しいことおっしゃらないで下さい」 「……」 「様」 絹で織られたルシウスの品の良い袖の下から、古傷が何筋も覗いた。服の下の彼は傷だらけだ。 敵を殺す時に出来た傷。俺を守る為に出来た傷。そして、俺が苛立って気まぐれに付けた傷。 …そろそろ彼が本当に泣きそうなので、苛めるのを止める。 「…ねえ、ヴォルが見つかったって、本当?」 「はい。…まだ完全にお力を取り戻していらっしゃいませんが」 「……。…なんで、俺に会いにきてくれないのかな?」 「きっと…様には御覧になって欲しくないのだと思います。その…今の、変わり果てたお姿を」 俺を気遣っているのか、それともヴォルデモートに対して遠慮をしているのか。 慎重に言葉を選びながらも、ルシウスは躊躇うように返事をする。 確かにそれは、ルシウスの推測に過ぎないのだけれど、理論的に物事を考える彼の推測は、大抵の場合、見事に的を得ているのだ。 「…そっか。早く、元通りになればいいのにね」 俺が嬉しそうにそう言うと、ルシウスは戸惑ったように微笑んで目を細めた。 気付かれないよう、嫉妬を含んだ視線を上手に隠している。 知ってるよ。 俺がヴォルの話題を出すの、気に入らないんでしょう? 「ヴォルは今何処にいるの?」 「現在はホグワーツのクィレルという教員を媒体にしていらっしゃるようですが」 「ホグワーツ? …そっか」 俺は紅茶が注がれたカップをじつと覗き込んだ。琥珀色の液が、丸くて白い器の中でゆらゆらと左右に揺れる。 まるで、か弱くて移り気な女のように。 「何か、汚いね。…寄生虫みたい」 軽い冗談のような口調で言った後に、喉の奥から競りあがって来た怪しい笑い声を無理やり押し殺すと、胸が苦しくなって息がつまった。 椅子から立ち上がり、整然と薬が並べられた戸棚へ向かう。 ルシウスのローブの裾を踏みつけたので、上等な刺繍に足跡が残ってしまったけれど、ルシウスは文句も言わず黙っていた。 さっきから、心臓が煩いほどに高鳴っている。緊張しているのか、それとも興奮しているのか。 どちらにせよ、この高まる気持ちはもう抑えられそうに無い。 早く早くと、微かに手が震える。気が急いて仕方が無い。 俺は、赤くて細い糸が括り付けられている紫色の薬瓶を、迷うことなく手に取った。 軽やかな音と共に一気に栓を引き抜くと、腐った卵を潰したような腐乱臭が部屋一杯に広がり、まるで脳味噌がじわじわと腐っていく気分になる。視界の端で、ルシウスが眉を顰め口元を掌で覆って吐き気を堪えていた。 「…っ。それは何の――」 ルシウスが聞いてきたけれど、先に答えを知ってしまったのでは面白くない。 俺は意地悪く目の端を細めて、何も言わずにただ瓶を斜めに傾けた。 毒々しく濁った液体が、形の良い艶やかな両唇の奥へと一滴も残すことなく吸い込まれていく。 口に含んだ瞬間、酷い悪臭で身体の内部の肉がまるごと腐ってしまいそうな気がした。 喉の奥へと無理やり押し流せば、一気に全身を激痛が蝕む。 痛いと呻くことすら出来ずに、力が抜けた掌からは空になった透明な瓶がするりと滑り落ちた。 それは重力に逆らうことなく床へ落下し、派手な音と共に粉々に砕け散って厚い絨毯の中に埋まる。身体からは灰色の蒸気のようなものが立ち昇り、やがて部屋中へ広がってぼんやりと瞳の中に映る視界を奪うまでに密度を高めた。 「様…ッ!」 近くで、焦って気が狂ってしまったかのような甲高い声が、自分の名前を呼ぶ気配がした。 何故俺の名前を呼ぶの? 何故そんなに慌てているの? 何故こちらへ駆け寄ってくるの? 痛い。痛くて、何も考えられない。 いつしか何も感じることすら出来なくなって、身体を押し潰す痛みが緩んだ一瞬、ほんの一瞬に、 喉から息を思い切り吐き出して、俺は本能の命ずるままに三半規管を引き裂く獣のような激しい咆哮を迸らせた。 果てしない苦痛。 喉が潰れそうになる己の叫び声。 終わらない。もうこのまま終わりなど訪れない。 けれども終わりは驚くほどあっけなく。――そして、唐突に訪れた。 何度かの急激な場面転換の後、両足から崩れ落ちた俺の目前には床がすぐ傍まで迫っていた。 ぶつかる。ようやく回転を始めた脳味噌で顔面を強打する覚悟を決めた直後、大きくて力強い手が下から俺の身体をしっかりと支えた。 予想していた衝撃は、受け止めた男の両腕に吸収される。反動で少しだけ彼の腕の位置がずれた。 殆ど無意識に重い瞼を持ち上げれば、失敗したのかと唇をきつく噛み締めながら、大丈夫だと懸命に自分に言い聞かせようと苦悩するルシウスの姿が目の端に映った。 倒れ込んだ身体を引き寄せて、俺の意識がはっきりしていることを確認すると、ルシウスの 薄く開いた色の悪い唇からは小さな安堵の溜息が漏れる。ぴったりと耳に張り付いた厚い胸板からは、服越しにも 関わらず物凄い音量と速さで打つ鼓動が聞こえて来た。 「…心配しました」 「でも大丈夫だったでしょ?」 「…心臓が壊れそうです」 「大丈夫。音が聞こえるから、まだ壊れてないよ」 ルシウスの囁くような呟きが、途切れ途切れなのにとても大きく聞こえる。 ふと気付くと、二人の顔がキスを出来そうな程近づいていた。 双眸が交わるように見上げると、触れそうな二人の暖かな吐息に、ルシウスもようやく気付く。 彼の火種のように赤く紅潮した頬と、温度を上げて熱くなった掌がやけに生々しい。 けれども俺ははにかむ様に悪戯っぽく笑い、何事もなかったかのように平然を装って立ち上がった。 足がふらついて、身体がよろめく。 「あー…頭がんがんする」 「大丈夫ですか?」 「うん」 そう呟いた声音は、自分でもなんだか違和感を感じてしまう程高い。 落ちてきた前髪を掬ってみながら起き上がって鏡を覗いて見れば、一枚を隔てて広がる左右対称の世界に映っていたのは十一歳の頃の自分だった。 ルシウスと向き合ってみてわかったのは、視線が合う高さが先程よりもふた周り程低いこと。 成長して加わったはずの色香が薄れた幼い姿は、その代わり頼りない雰囲気と純粋さが際立っていた。 はじけるような白い肌とピンク色の小さな口元が、自分でも犯してしまいたいほど愛らしい。 「どうされるんですか?」 「ホグワーツに行く」 「ヴォルデモート様に会われたいのですか?」 「うん。会いたくないって言われると、何か余計に会いたくなるよね」 「危険です。万が一正体がばれてしまったら…」 「大丈夫だよ」 いつまで経ってもルシウスは渋っている。 俺は先程まで座っていた椅子をぽすぽすと叩き、彼に座るように促した。不審がりつつも、ルシウスは素直にそれに従がう。 ルシウスが座ったのを確認した所で、俺はよいしょと彼の膝の上に跨った。 「ルシウス、撫で撫でして?」 「……」 おずおずと差し伸ばされた掌は、ヴォルデモートの感触と似ていた。 俺が嬉しそうに身を捩って小さく笑い声を響かせると、ルシウスはまるで小動物を抱きしめるのを我慢するように、全身をふるふると震わせる。 彼は落ちつか無げに視線をさ迷わせた後、耐え切れなくなったようにふいっと顔を逸らしてしまった。 「俺ヴォルのこと好きだよ。でもルーのことも好き」 「…お戯れを」 「うん。戯れてるの。もう一回言う? ルー、大好き」 「……」 「ホグワーツ行って良いよね? 行くななんて、そんな意地悪言わないよね?」 敗北感を感じているのか、複雑そうに顰められたルシウスの表情は今にも泣きそうだ。 そんな嗜虐欲をそそられるいたいけなルシウスが、俺は可愛くて可愛くて仕方がない。 ふふっと無邪気に微笑んで手を延ばし彼の頬を指で撫ぜれば、 まるで母猫に甘える子猫のように心地よさげに顔を緩ませてルシウスは喉を鳴らした。そのままそっと柔らかく頬に唇を落とすと、彼は真っ赤になった顔を隠そうと必死になり俯き加減に瞼を伏せる。 「ねえ。ルーの髪の毛、三つ編みにしてリボンで結んで良い?」 「御心のままに。ユア・ハイネス」 ルシウスは本当に何をされても怒らない。 |