Chapter T 三人の男 - ルシウスの場合 -



時々、古傷が痛むことがある。 そんな時は決まって様を思い出す。
天使のような微笑と、そして悪魔のような笑顔。

まるで蟻地獄のようだ、と思う。

一度足を滑らせたら、後は奈落の底へと引き擦り込まれて喰われるしかないのに。
そうとは知りつつも逃れることが出来ない。そのことを、私は既に身に沁みるほど知っていた。

「大好きですよ。様」

私には、様に「愛してる」と言う勇気すら無かった。
私には、様をヴォルデモート様から奪い取れるだけの力すらなかった。
私には、様から離れて、そして全てを忘れてしまうだけの覚悟すら無かった。

だから様がヴォルデモート様と触れ合う度に、鳩尾にいる酷く醜くくて荒々しい獣を 私は必死になって押さえ込んだ。私は傷ついても良い。ただ、自分の欲望のせいで、様を傷付けることだけは、絶対に許さない。

言い訳のように、何度も自分に言い聞かせる。
様は欲望と憎悪しか生み出さない。もう諦めるべきなのだ。

「ルー大好き」

その一言が全てを台無しにする。














「ルー…――ルーってば」
「あ。はい。なんでしょう」

先程から呼ばれていたらしい。
耳に飛び込んできた自分の名前に、私は慌てて誤魔化す様な笑みを浮かべた。

漸く曖昧な返答を返した私に、不貞腐れたように様の双眸は釣り上がったが、そこに反射して見える自分の困ったような表情にすら 、微かな喜びが湧き上がる。

「入学許可証、届いたよ。ありがとう」
「恐れ入ります。様のお役に立てるだけで、光栄です」
「後、あれ見せて。えーと…『教員名簿』」

そのたった一つの単語のせいで、私の身体は電気椅子に縛り付けられた死刑囚のように身動きが取れなくなった。 けれどそれはほんの一瞬のことで、コンマ数秒のうちに見事な脱獄を果たした私は、教員名簿ですね? と微笑みを満面に湛えて 取り繕う。

だが、人のそういった不自然な態度に誰よりも過敏な様に、気付かれていないわけが無い。

「ねえルー」
「なんですか?」
「隠し事なんかしてないよね?」
「勿論ですよ様」
「…ふーん。それなら良いけど」

納得の行かないような、明らかに不信がっている口調でこちらをちらちらと見ていたが、やがてどうでも良くなったのか、それとも飽きたのか、確かなことは私には分からないが、 差し出された教員名簿に目を通すことに様は専念し始める。

(実は教員名簿に私の不自然さの元凶があるだろうことに様は敏く気付いたらしいが、 この時の私にそこまで気を回せる程の余裕は無かった)

私は気が気ではなかった。確かに私は隠し事をしていたが、それは様への裏切りではなく、 犬が自分の縄張りに他の犬が入るのを嫌がるように、自己中心的な独占欲が、引き起こした結果だった。 だから、いつものように万端の準備で事を運ぶなどというレベルではなかったし、万が一の時の言い訳など一つも用意していなかったのだ。

だが内心どう取り繕って誤魔化したところで第三者から見れば卑しい隠し事であることは火を見るよりも明らかだったので、私は様の視線の先がアルファベット順の名前を滑るようになぞっていく間に 何と言い繕おうか必死になって考えることに意識を集中させていた。

やがて様の双眸がアールを過ぎてエスの欄に来ると、ぴたりとその動きが 見事なまでに止まる。

「魔法薬学教授セブルス・スネイプ」
「……」
「これ、セヴィのことだよね?」

次の瞬間鳴り響くであろう怒号に備えて巻き込むように硬く唇を引き結ぶと、擦れるような嫌な感触に、口腔とは対照的に、唇が緊張で乾いてざらついていたことに気付く。

私は気付かれないように小さく喉を鳴らして、口内に溜まった唾を嚥下した。
しかし、何時まで経っても覚悟していた憤怒の声は聞こえない。

変わりに、酷く乾いた掠れ気味の低い声が捻じ込まれるように耳の奥まで入り込んできた。

「――」

様が何かを漏らすように呟いたのは分かった。
けれど、聞き返すわけにもいかず、また怖くてその勇気も無い。

様が次にどのような行動に出るのかを、 静かに、しかし脳味噌の回転が止まる程内心パニックになりながらも、ただひたすら待ち続けるしか私には道が残されていなかった。

――ふいに、身体が浮き上がったような心地に見舞われた。

すぐに背中が激しい音ともに壁にぶつかる感触がしたが、痛みが来たのはその瞬間ではない。
様が見事なまでに的確に右足を振り上げ、顎を蹴り上げて、私の身体が宙に浮き、物理の法則に従って勢い良く壁に叩きつけられて、その衝撃で内臓が損傷したのだ。

事態を理解して、漸く私の脳味噌はシナプスを通して内側から燃え上がるような痛みを伝達し始めた。

霞む視界を凝らすように見ると、ぼんやりとした白い部屋の中で、様の双眸だけが獲物を狩る直前の梟のようにぎらついて、 くっきりと浮かび上がっているのが見える。

ざわざわと、鳩尾の獣が不安がるように見事な銀色の毛並みを震わせ始めた。
それなのに。潤んだ様の瞳を拭うことしか頭に浮かばない。

「隠し事はしてないって言ったのに…嘘をついたの?」

冷たく光る瞳とは裏腹に、今にも泣き出してしまいそうな程悲しそうな様の声音がこびり付く様に耳から消えなくて、私は今すぐ自分の首を力強く 締め上げてしまいたい衝動に駆られた。

これほどまでに、何かに罪悪感を感じさせられたことは一度だって無かったというのに。
ただその様の失望したような寂し気な一言が、私を失意のどん底まで突き落とした。

どうしようもない自分に涙と反吐が出そうだ。

「ルーいつも、セヴィが何処に行ったかわからないって言ってたよね?」
「はい」
「セヴィが先生やってるの知ってたの?」
「はい」
「知ってて俺に教えてくれなかったの?」
「はい」
「何で?」
「…様は…セブルスを特に気に入っておいでのようだったので」
「……。…それだけの理由で?」

ルーの意地悪。そう酷く醒めた口調で呟いて、硝子球のように虚ろな双眸で見下ろしながら、様は私の肩を足できつく踏みつけた。

「何勘違いしてんだよ俺お前のことなんかいらないよ嘘つき嘘つき嘘つき そうやって俺の前で頭上げようなんて百万飛んで二十億光年早いんだよ体から精子引き抜いて卵子から やり直して来い馬鹿もうルシウスなんて知らない嫌いいらないもうお前と話すくらいなら舌噛み切って死ぬ方がマシだ! 嫌いだ俺に隠し事をするルシウスなんて 嫌いだ大嫌いだ! 間抜け! 屑! デコ! 腐った蜜柑!」

興奮すると饒舌になる様の癖は、小さい頃から変わることがなくて。
最後の方は早口過ぎてあまり上手く聞き取ることが出来なかったが、兎に角罵倒されているのだということは及ばずながら理解できた。

けれどもあんな悲しそうな口調で淡々と喋られるよりも罵られている方が 数万倍も気が楽になるので、私は内心寧ろ先程よりも安心して何度も蹴られるのに耐え続ける。

回数を重ねる毎に内臓の痛みは激しくなり、酷い時には骨に足の先がのめり込むのが生々しく感じ取ることが出来た。それでも様は蹴るのを止めなかったので、 とうとう内臓のどれかが破裂して私の唇の端から一筋水滴が零れ落ちる。

暖かく滑らかな感触で滑るように流れ落ちたそれは、錆色をした薄汚い血液だった。
服に数滴零れ落ちるのを目の端で捕らえて、ああ後で綺麗にしなければいけないのか面倒くさいと、他人事のように考える。

主観的になれなかったのは、単にそう考える余裕がなかったからだろう。

「血…」

不思議と客観的な自分とは反対に、僅かに流れた血に不自然なほど動揺して、慌てたように様は蹴りを入れるのを止めた。じわりじわりとその双眸が潤んでいく。
咄嗟の事とは言え驚きを隠せず、私は如何すれば良いのか分からなかった。

「ごめんね。ごめんね。ルー、ごめんね」

大事な純血なのにねと、何度も繰り返し言葉を紡いでしゃくり上げながら、様はひしと私の首に腕を回して抱きついた。 密着する子供らしい体温は熱くて、私は痛みも忘れてそっと瞼を閉じて様の首の項から漂ってくる香りをゆっくりと吸い込んだ。 浜茄子のように甘くて爽やかな、儚くも優しい薫り。

本当に、この人はいつまで経っても子供のようで。
けれどもだからこそ、堪らなく愛おしくて愛おしくて仕方が無いのだ。

何度も何度も傷付けられて、消えない傷で体中がぼろぼろになって。 それでも自分から離れることが出来なくて、この命をあの細く頼りなく、けれどしなやかで力強い手で、終わらせて欲しいとすら願ってしまう。

私が死ぬ時でさえ、いつもと同じように 様には優しく、そして残酷に笑っていて欲しい。
その時のことを考えると、恐ろしくもあり悲しくもあり…そして、何故か背筋が震えるほど嬉しいのだ。

ふと、嗚咽に紛れて何か聞こえた気がして、私は優しく聞き返した。

「何ですか?」
「この次は、血の出ない遣り方にするから」

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