冷たい雨の雫が体温を奪い取るように、全身へと絶える事も無く降り注いでいた。 静かに音を立てないようトリガーへ指を掛ける。獣のように気配を消して、壁に背を合わせながら、俺はゆっくりと足を一歩踏み出した。 雨の音が、存在を飲み込むように激しく辺りを覆い尽くしている。 突如、すぐ近くで砂を擦るような無防備な足音がした。 じゃりっじゃりっじゃりっ。序々に此方へ近づいて来る気配に、喉の奥に溜まった唾を嚥下して指先にもう少しだけ力を込める。 天秤の上にぶら下がっているような、寿命を縮めそうな状況にはもう慣れていた。焦りも脅えも無い。ただ静かに、刀剣のようにしなやかに末端の感覚と精神を研ぎ澄ます。 じゃりっ。一度は止まっていた足音が、再び此方へ向かって近づいて来た。砂を踏みしめる音が、雨の中に溶け込みながら沸き起こる。 段々と早くなっていくその足取りに、迷いは無かった。 近すぎる。これでは間に合わない。 覚悟を決めた瞬間――「」――聞き慣れた声が、聞き慣れた名前を呼んだ。俺の名前だ。 一気に抜けた緊張感に安堵の溜息を深々と吐きながら、俺は肩から力を抜いて銃口を降ろした。 ゆっくりと相手の姿を確認すると、そこには今回の仕事を共に請け負った同僚が、いつもの少しだらしない笑顔を浮かべながら、軽く掌を振って立っている。 「橋本さん、脅かさないで下さいよ。標的と勘違いして撃つ所でした」 「悪いな、。でも、ターゲットはついさっき仕留めた。仕事は終わったよ」 「他の皆は?」 「多分、まだその辺にいるんじゃないか?」 「そうですか。じゃあ、早く集合を知らせないと――」 懐から通信機を取り出そうと視線を下に向けた、瞬間。熱い何かが肩口を霞めた。 続いて、もう一発。今度は腹部に物凄い熱が打ち込まれる。 あれ。…なんだよ、これ。そう思ったその刹那、熱は急激に痛みへと昇華した。喉を通過していた酸素が通り道を失い、呼吸が出来なくなって、 必死に四肢をばたつかせて足掻く。身体はバランスを失い、強く地面に叩きつけられた。水溜りが水飛沫を上げる、派手な音が空間に響く。…まだ雨は、降り続いていた。 「なん…で…」 「悪いな」 さっき謝ったばかりなのに、彼は同じことを、全く違った表情で呟いた。先程までの間の抜けた雰囲気は消えて、今は醜悪に塗れた表情で此方を見下ろしている。 その手の中には、9mm自動拳銃が握られていた。目の前に広がるにやにや笑いが、ぐるぐると頭の中で回っている。 ああ。裏切られたのか。何故だか、そこだけ妙に鮮明に理解していた。 「大丈夫だ。他の奴らは、先にいった」 何処へ? 集合場所へ? ――それとも。 「、お前、死ぬの怖いか?」 銃創に弾丸を込めながら、どうでも良いことを話すように、目の前の男は言った。大して感情の篭っていない、相槌しか求めていないような世間話。だが生憎、相槌を打てるほどの余裕は無い。俺は呻くように顔を苦痛で歪めた。 「もしかしたら、俺はお前のこと凄く気に入っていたのかもしれないな。…でも、残念だよ。本当に、残念だ」 彼はもう一度低くそう囁いて、銃口を俺の額にぴたりと付けた。まるで狩りを楽しむように、嬉しそうに俺の脳味噌に狙いを定める。 そういえばこの男、SMクラブとか通ってるって噂あったんだっけ。全くどうでも良いことを、死にそうな時に思い出してしまう。 本当に、俺の職場にはまともな奴がいない。 何故だか可笑しくなって、枯れて異物が詰まったような喉から僅かに肺に残っていた息を吐き出した。 破れた内臓から漏れた血が、一緒に地面に巻き散る。鉄のような口紅のような、血独特のあまり美味しくない味がした。 これで俺の人生も終わるのだろうか。長いとは言えない人生だった。好きにはなれなかったが、自分で選んだ職業に後悔は無い。だからなのか。 この状況をどうにかしようとする気も、目の前で厭らしく笑う男を憎む気も、全くと言って良い程起こらなかった。 小さな微笑が口元に浮かぶ。「抵抗くらいしてみせろよ! つまんねぇ奴だな!」と、男が怒った様に罵倒するのが見えた。 痛みで鈍った思考回路を、白い絵の具で塗りたくる。痛みで、もう四肢の感覚は役に立たない。 男が狂ったように何か叫んでいる。『ヴォルデモート様』? ――けれど、そこで意識は途切れた。 まるで俺の脳裏に浮かんだ情景そのままに、視界一面が白い色で埋め尽くされていた。 ぼやける風景の中に、肌色の何かが入り込む。少しの間の後――それは、此方を少し安堵気味に覗き込んでくる 女性なのだということに気がついた。何度か瞼を瞬かせると、やがて序々に意識も覚醒し始める。 「――気がつきましたか?」 優しいけれども形式的な挨拶と、白い決まった型の清潔感が溢れる制服。 血圧や脈を手際良くチェックしていく姿は、何処からどう見ても、見紛う事無き立派な看護師だった。 「意識ははっきりしていますか? 名前は言えますか?」 「… です」 「此処は何処かわかりますか?」 「…病院…?」 「そうですよ。貴方の職業は? 言えますか?」 「秘密部隊員」 俺が真面目な表情でそう答えると、彼女は少し怒ったように顔を顰めた。その様子がなんだか可笑しくて、俺は少し頬を緩めながら 微笑みを浮かべて謝る。 「…すみません、冗談です。公務員ですよ」 その答えに満足したのか、看護師は先程と同じ笑顔で、淡々とまた俺の健康状態を調べる作業に戻る。 俺は彼女の動く様子を何も考えずに視界の中に収めた。 白い影が一部の隙も油断もなく、無駄の無い動きで蠢いているそれは、なんとなく、えさを啄ばむ白い鳩を思い出させる。 「あの。看護師さん」 「なんですか?」 俺が質問を口にするよりも僅か前に、扉が控えめな音で規則正しく二回、コンコンと叩かれた。 入室の許可を求める合図に看護師は一瞬躊躇うような仕草を見せた後、「どうぞ」と俺の様子を伺いながら答える。 白い扉にある銀色のノブがガチャリと下がり、此方に配慮をするかのように、ゆっくりと音も無く扉は開かれた。 「君、加減はどうかね?」 「主任」 朗らかな口調で入ってきたそろそろ壮年と呼ばれそうな年頃の男性に、俺は少し肩を強張らせながらも、 丁寧に頭を下げた。 「わざわざ見舞いに来てくださったんですか?」 「部下が入院したんだ。当然だろう」 そう言って笑う彼の姿は、看護師から見れば部下思いの優しい上司なのだろうが、生憎、この親父は 一筋縄では行かない古狸だ。よいしょ、と彼は掛け声を上げてスチールの椅子に腰掛け、花束を看護師に 渡して「君、済まんがね、これを花瓶に生けてはくれないか?」と笑顔で頼む。 看護師は快くそれを引き受けたが、残念ながらそれがこの男が俺と二人で話す為に巧妙に仕組んだ罠だということに、彼女が気付いている様子はない。 「で、だな」 扉が閉まって彼女の足音が遠ざかる音がすると、主任は姿勢を崩して胸ポケットからタバコを取り出した。 セブンスターと表に描かれた箱から、慣れた手つきで一本取り出して銜える。風の噂で主任が煙草を止めるのに失敗した と聞いていたのだが、どうやら本当だったらしい。 生憎俺は煙草の煙が大嫌いなので、さり気無く常識人ぶって、彼を窘めた。 「主任。病院は禁煙ですよ」 「――む?」 目の前のオヤジは、煙草と今にも着火しようとしていた百円ライターを交互に何度も見やり、やがて溜息を吐いた後 もう一度セブンスターの箱を取り出す。銜えていたまだ火の付かない煙草を大事そうに仕舞う表情は、 まるで目の前でお預けをくらった子供のように残念そうだった。 「それで、主任。今日俺の見舞いに来て下さった本当の目的は何なんですか?」 「…敏いなあ、キミは」 からからと笑っているのに、主任の両目はまるで隙の無いハイエナのようだ。 「君、旅行は好きかい?」 「…はぁ?」 唐突過ぎる質問に彼の意図を掴み損ねて、非常に間の抜けた声が俺の口から漏れ出る。 それが何か嬉しかったのか、主任はやたらとにこやかに頬を緩めながら俺の肩を力強く叩いた。 「今回の件で君も疲れただろう。折角だから、空気の良い所に行くといい。…イギリスなんかどうだ?」 「…それは――…左遷、という意味ですか?」 心外だと、主任は顔を顰めた。 「誰も、こんな人不足になってしまった時期に左遷なんぞしたりせんよ。…ああ、いやいや」 失言だったとばかりに彼の眉根の溝が深くなる。しかし、俺はその発言ではっきりと悟ってしまった。 大きな絶望感と、それでもほんの少しだけ残っていた微かな希望を含んだ事実が、望んでいなかった方に確信を得ていく。 「やはり――皆は殺されたのですか?」 主任は一瞬押し黙り、そして諦めたように長い長い溜息を吐き出す。その瞳は一瞬暗く暗沌とした空洞のように見えた。 皆というのは、一緒に仕事を遂行した同僚達のことだ。橋本の口ぶりから何となくは想像できていたが、肩口に受けた傷の痛みが現実であるように、 昨日まで親しく軽口を叩き合っていた知人がもうこの世界には存在していないというのも現実なのだろう。 まるで現実味がなかった。夢のようだった。殺されそうになった瞬間の、橋本の歪んだ顔だけが何故か脳裏で渦を巻いている。…ああ、そうだ。すっかり忘れていた。 「…橋本さんは? どうなりました?」 「増援隊が捕えて、今は密通の容疑で拘束中だ。お前のことを助けたものあいつ等だからな」 「後でお礼を言っておきます」 「もう一歩遅れていたら、今頃お前は棺桶の中だったんだぞ。菊屋の和菓子ぐらい差し入れとくと良い」 そうですねと頷いてから、俺は話の続きを促した。 「それで、何故イギリスなんですか?」 「ん? ああ、そうだったな。――ヴォルデモートって知ってるか?」 「…橋本さ…。…橋本が、何かそんなこと言っていたような」 「じゃあ、『例のあの人』は?」 幾度か耳にしたことのある単語が出てきて、その意味の不穏さに俺の眉間にある皺は鏡を見なくても自分でわかってしまうくらい 深くなった。それでも先に行かないと何も始まらないので、掌で米神を押さえながら言葉を捻りだす。 「…イギリスを中心にヨーロッパ周辺で一時勢力を伸ばしていたグループの中心人物ですね?」 「そうだ。ヴォルデモートというのは、その『例のあの人』の名前だ」 「橋本が繋がっていたのは、ソイツなんですか?」 静かな部屋の窓から見える緑豊かな木々が、ざぁっと突風に流されたように揺れた。看護師の足音が聞こえないことを確認しながら一段と声を 落として主任は囁く。 「…と、いうのが今の所の有力説だな」 「で、その真偽を確かめに、俺にイギリスに行け。と」 「可能ならば、ヴォルデモートの身柄の確保も仕事に含まれている。…多分、これを口実に今度の条約に向けて日本政府はイギリスに恩を売っておきたいんだろう」 俺はそのダシですか、と不満げに言うと「まあそう拗ねるな」と苦笑しながら主任が頭をくしゃくしゃと撫ぜてくる。 別に気にする程髪の毛をきっちり整えていたわけではないが、その乱暴な手つきのせいで乱れた髪を思って、少し恨みがまし気に彼を見返した。 「本当は今回のことで人が減ったから、引き受けたくはなかったんだが…」 「拒否権は無いんですか?」 「公務員にお国の命令は絶対だからなあ」 「……。ですよねー…」 まあ頑張れよ。他人事のように――いや、実際他人事なのだろうが――笑う主任に軽く殺意を覚えながら、わかりました、怪我が治り次第 出張の準備に取り掛かりますと伝える。同時に、まるで計っていたかのような素晴らしいタイミングで看護師が花を生けた花瓶を持って扉を開けて入ってきた。 マーガレットや百合や俺が名前の知らない花が、群青色のガラスの中で淑やかに首を傾げている。 「じゃあ、そろそろ私は帰るから。早く怪我治すんだぞ」 「はい。――花、どうもありがとうございました」 そう言って頭を下げると、主任はにかっと笑い、後ろ向きに手を振りながら中年の渋みのようなものを感じさせる後ろ姿で颯爽と出て行った。 俺の腕に刺さった点滴の針をもう一度確認しながら、穏やかな優しい声で看護師が微笑む。 「良い上司をお持ちですね」 俺は、それ騙されてるって! と喉まで出掛かった言葉をぐっと堪えて、些か引きつった笑みを浮かべながら曖昧な相槌を打って誤魔化した。 |