Chapter W  待ち人



時は遡り、ノクターン横丁での一悶着の後、セブルスが宿屋で気を失って寝込んでいたその間。

俺はセブルスの意識が当分は戻りそうに無いことを確認すると、彼を起こしてしまわないようにそっと慎重に扉を閉めて、部屋を後にした。

音も無く閉まった扉に付いている些か錆びれた銀色の取っ手をじつと眺めてから、扉越しに彼の寝息を聞き取る為に耳を澄ませる。 小さいながらも一定感覚で聞こえて来るのを確認して、古びた階段を足音を立てないように下りた。

木造建築のこじんまりとした宿屋は大分年季の入った作りをしていて、ぎしり、という木の軋む音がやけに長く大きく廊下に響く。 思わず動作が止まり、その一瞬の間に静寂と、そして遠くからダイアゴン横丁の喧騒が耳の奥の三半規管を刺激した。 白いカーテンがふわりと風に流されて、薄緑色の小鳥が青く澄み切った空を飛び回っているのが見える。

(あれ。――何でこんなにセブルスに気を遣ってるんだ? 俺)

別にノクターン横丁に戻るのにセブルスの許可が必要という訳でも無い。なのに、本当になんで俺はこんなにこそこそしなければいけないんだろうか。 ふと我に返って思い返すと、あまりの自分の滑稽さに軽い自己嫌悪に陥りそうになり、目頭を押さえてふるふると頭を横に振って邪念を追い払った。

『身の程知らずが!』 『マグルがノクターン横丁に行くなど!』 『救いようの無い馬鹿め!』

脳内でセブルスが俺のことを罵倒する声がリアルに再生される。 余計に腹立たしくなってきて、「子供じゃないんだから一人でノクターン横丁位行けるだろ? 俺!」と、開き直るように自分に言い聞かせた。 あんな人の仕事を邪魔するような奴に、良心まで振り回されるのは真っ平ごめんだ。

階段の最後の一段をやたらと大きな音で業とらしく降りきってから、フロントを覗く。 埃のかかった花の絵とアンティークチックなレジの間に挟まれたカウンターで、 先程応対してくれた従業員と思しき青年が暇そうに欠伸をしながら台帳をぺらぺらと 捲っている所だった。他に客もいなかったので、遠慮なく彼に声を掛けることにする。

「すみません」
「…何ですか?」

話し掛けると、彼は少し眉根を寄せた。ああ、これは…直感的な何かが知らせてくる。

(絶対この人、俺のことをホモだって勘違いしてるし…!)

…やっぱり、さっきチェックインをした時に感じた嫌な予想の通り、俺とセブルスでチョメチョメしようとしてる、 とか思われていたのだろうか? 最悪だ。 なんか日本男児としての尊厳を傷付けられた気がする。別に、自分が生粋の日本男児だ、なんて言うつもりはないけど。

でもこれだけははっきりさせておく。断じて言うが、俺はホモじゃない。寧ろ嫌いだ。

例え俺が所謂もやしだったとしても、例え高校生時代に通っていた男子校の文化祭で女装させられたことがあったとしても(黒歴史だ)、例え親友と思っていた男に告白されたことがあったとしても、 例えその時危うく掘られそうになったことがあったとしても。――俺が好きなのはナイスバデーで優しくてふわふわしてる甘いの匂いのする「女の子」だ。 ごつごつしてる男じゃなくて、可愛らしい女の子だ。少しきつめのツンデレお姉さんでも良い。伊達に年上キラーって呼ばれてるわけじゃないし。

けれど感情的に叫び声を挙げながら唾飛ばしてそうやって否定してもどうせ誤解が深まるだけなんだろうな、と、経験的に察知して、俺は若干引き攣っているはずの笑顔を浮かべながらも 友好的に、かつ出来るだけ冷静な声で返した。

「俺は用事があって出掛けなければいけないので、ちょっと出掛けてきます。具合が悪くなって倒れてしまった友人がもし起きたら、直ぐに戻ると伝えてください」

石田純一ばりの爽やかな好青年的な笑顔を装って、単にセブルスの具合が悪かったら男二人でホテルに入ってきたんですよー、ホモじゃないですよー、というようなことを付け加えて強調する。 後々英国の魔法界での生活に支障を来たしてしまうかも知れないので、俺も必死だ。絶対にここで誤解は解いておかなければ死活問題になる、という変な 使命感が、ぐるぐると勢い良く渦を巻いている。

「お願い出来ますか?」
「はあ…。…良いですよ」

曖昧な返事とは裏腹に、従業員の双眸は先程よりも二割増しで暖かくなっていた(気がする)。心なしか態度も柔らかだ。 医者を呼んでおきましょうか? と申し出てくれた従業員の優しさに、ありがたいですが気絶しているだけなので その内目を覚ますでしょう、と謹んで遠慮をして、誤解が解けたことに安心しながら俺は小さく頭を下げてから宿屋を後にした。

後々、これが全ての間違いであったと激しく後悔することになるのだが。









ノクターン横丁へ戻ると、拷問した男は未だに地面にうつ伏せになって倒れていた。傍には見知らぬ男が一人、置物のように動かなくなってしまった男を、 何をするでもなくただ黙ってじつと見下ろしている。

男の姿を視界に納めた瞬間、俺は何の迷いも無く銃口をぴたりと立ち尽くしている彼の心臓へと狙いを定めた。 歯車が噛み合う様な機械的なカチリという音が、日の光が薄い仄暗い空間の中で静かに反響する。

案山子のような男は此方に背を向けていて、顔を見ることが出来なかった。 きっと、殺意を向けられていることには気付いているに違いない。それでも動かないのなら、目の前の男は 余程の馬鹿か相当頭が切れる奴かのどちらかだ。個人的には単なる馬鹿であることを願ったが、普段から存分に活躍している俺の第六感が、 そんな単純な相手ではないということをひしひしと警告していた。

相変わらず掌にぴたりと馴染む愛しいコルト・パイソンの銃創越しに、ちらりと掠めるように視線を地面に向けると、俺のことを襲おうとして返り討ちにあった下衆野郎 は見事な程救いようも無く完全に事切れてしまっているのが見える。

誰も彼を助けてやろうとする優しさを持ち合わせていなかったのだろう。
もはや近寄る必要も無く、男のプディングのような心臓が動いていないことは明白だった。

胸が上下する所か、ぴくりと痙攣すらしない。何よりも、路地に飛び散った半端無い多さの量の 液体が全てを物語っていた。飛び散った直後は鮮やかに紅かったのに、酸素に触れて酸化したそれは、今はグロテスクな赤黒色をしている。かなり気持ちが悪い。

「…可哀相に」

小さな呟きが、まるで他人事のように俺の唇からぽろりと漏れた。いや…間接的にしろ直接的にしろ、この男を殺したのは 確かに俺なんだろうけれど。――やはりもう一度冷静になってから人形のように色の悪くなった抜け殻を見ても、ちっとも主観的にはなれなかった。

やがてその死体の近くでそれを軽蔑するかのように見下ろしていた男は、動かないソレとは対照的に、此方に視線を向け不適にふわりと 目元を緩めて微笑を浮かべた。

煌く銀色の長髪と、一見しただけで高級な生地を使っているだろうことが分かる上品な出で立ちの服装。彼はやけにこの 汚らしい裏路地にはミスマッチしてるように感じられる。死体と化した男の仲間だろうかとも思ったが、断定してしまうには違和感があった。

「『可哀相』? この男を殺したのは君だと思ったのだけれどもね。ミスター 

薄く嗤っている唇から漏れたハスキーな声は、やはり想像通り嫌味ったらしい気取ったものだった。
…けれど苛立ちを覚えるのと同時に。単純に。――そう、単純に。頭の切れる男だと、感心した。

情報がリークしていないのならば、この国で俺の名前を 知っているのは日本政府とイギリス政府のお偉いさん方、そしてセブルスだけだ。 あの神経質で友達がいなそうなセブルスが、他人に俺のことをぺらぺらと喋るなんて考えにくい。

だから、彼が俺の名前を知っている以上、俺は彼を簡単には傷付けることが出来なくなってしまった、ということになる。 もし目の前の男がお偉いさんと繋がっていたり、もしくは彼自身がお偉いさんだったりしたら、 彼の腸をぶちまけることで非常に面倒な事態になってしまうからだ。

外交特権があったとしても、俺だって唯では済まされない。 運良く帰国出来たとして、職場にある俺の机が撤去されているのは必須だ。そんなのごめん被りたい。 それら全てを計算した上で俺の名前を出したというのなら――本当に大した男だと思った。

どちらさまですか(・・・・・・・・)?」

銃を下ろさずに不貞腐れたような態度のまま、慇懃無礼に俺は尋ねた。視線は彼から一ミリたりとも外さない。 そんな警戒心を丸出しにした俺の様子を、顔に掛かった長髪を耳の後ろにかける動作で余裕を見せながら、男は楽しそうに見つめていた。 にやにやと、背筋が逆立つような不快な笑みを浮かべて。

「君はまるで黒猫のようだな。愛らしく、おまけに賢い」
「…質問に答えて頂けますか? 閣下」
「ルシウス・マルフォイ。私のことはファッジから聞いているとは思うが」
「いいえ。伺ってませんが」
「……」

無言でもう一度機械音を立てながら銃口を構えなおすと、ルシウスと名乗った男は少し慌てたように乾いた 笑いを浮かべて誤魔化した。ひらひらと両手を泳がせて空虚な微笑を表情に表した姿は、如何わしい、 以外の何者でもない。

「ま・まあ、兎に角だな。――私はホグワーツの理事をしていてね。ファッジとは懇意の仲だ」
「それを信じて俺が貴方を傷付けるのを止めると?」
「止めるだろう。賢い君ならばね」

完全に内心を読まれている。それが異常に不快だったが、やはり可能性がある以上、濫りに彼を傷付けることなど 出来なかった。可能性信者の悲しい習性だ。

ぎり、と奥歯を噛締める音が口の中で小さく響いたのが聞こえたらしく、 ルシウスは至極楽しそうな視線で悔しさが滲み出た俺の相貌を見つめた。 俯いて、にやりと鋭角に上がった薄い色気の無い唇の端を彼が隠そうとしているのが分かる。 一対の灰色の瞳は青白い光を反射しながら、三日月のように薄く薄く細められていた。その変化に、 ぞくり、と、俺の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。

「悔しい? 未だに『闇の帝王』の情報は何も入ってこないのだろう?」
「…黙秘します。それからその口を閉じて下さい、マルフォイ氏。そのような挑発は不快です」
「『彼』は簡単に尾を掴ませる程甘くは無い。それは君の落ち度では無いよ。

傷ついた箇所を的確に癒していくような彼の言葉はまるでカスタードクリームのように 緩やかに甘く、俺の心の隙間に溶け込んでくる。けれども単純に喜べない原因不明の不快感が、先程から ずっと俺の身体を支配していた。彼の視線を感じる度に、小刻みに指先が震える。それに気付かれたくは無かった。

まるで時が止まったかのように、通りには物音一つ響かない。 俺は勤めて不自然にならないように、そして明るい声を装って、何でも無いことのように話題を変えた。出来るだけ彼の注意を俺自身から逸らしたかったからだ。

「それにしても、何故俺が だと分かったんですか?」
「ああ、そうだ――忘れていた。落し物だ」

芝居掛かった動作で指を鳴らしてポケットの中に掌を突っ込むと、ルシウスはハンカチで包まれた何かを取り出して見せた。 白い手袋の嵌った手で、 淡い桃色をした絹のレースハンカチを静かに、そしてゆっくりと、広げていく。彼の手の中、 皺一つ無いハンカチに包まれていたのは、鈍い銀色に光る三つの空薬莢だった。

通り魔の男に打ち込んだまま、俺が回収し忘れたものだ。

よく気付いたもんだな。鋭い観察眼を賞賛したいとも思ったが、それだけ彼は油断のならない人物だ、ということになる。 些か得意げな「私には何でもお見通しだよ」と言わんばかりの油断ならない笑みを浮かべて、ルシウスは掌を前に差し出した。 答えるように、ハンカチの上で薬莢が少しだけ角度を変える。

「つい最近派遣されてきた日本人はマグル。死体の傍の薬莢。しかも日本製。
日本製の銃弾をこの時期に、しかも銃を滅多に使わない魔法界で使うなど、君くらいだろう?」
「そうですね。…名推理です。感服致しました、マルフォイ氏」
「光栄だ。褒め言葉をどうもありがとう。――お礼に、これはお返ししよう」

犯人は現場に戻ってくるとよく言うだろう? この惨劇を目にしてしまったのは偶然だが、折角だから一度はこの鮮やかな手際の持ち主に会ってみたいと思ってね。 態々この暑い中、死体の傍で待っていた甲斐があったというものだ。

そう言いながら、ルシウスはずいっと掌を差し出して、俺に薬莢を受け取るように促した。 彼は先程から一歩も動いていない。…何故だか嫌な予感がして、彼に近づくのを躊躇った。 しばらく沈黙が場を支配して、ルシウスの視線は俺に、俺の視線は薬莢に注がれる。

先に負けを認めたのは、俺だった。しっかりと視線を灰色の双眸に交わらせたまま、銃口を降ろして 内ポケットに愛銃を仕舞いこむ。ルシウスは満足そうに目を細めながら、 俺の一挙一動を、じつとお気に入りの子猫を見るような視線で眺めていた。 俺の中の不快度指数がじりじりと上がっていく。

「ほら。どうぞ」
「…ありがとうございます」

彼のいる方向に向かって、ゆっくりと俺は一歩を踏み出す。

一歩。
また、一歩。

後は手を伸ばせば、目的のものはそこにある。そこまで近寄った、その時。――不意に。
ルシウスは肉食獣のような無駄が無い、素早く華麗な動きでさっと身を翻し、大きく一歩、此方に向かって踏み出した。 …いや、肉食獣という例えは綺麗過ぎる。敢えて言うなら、爬虫類。まるで、捕食者を見つけたカメレオンだ。 仕舞った、なんて悠長なことを考える間もなく、彼の長い腕が俺の身体を捕える。

もしかして全部嘘だったのか? とか、 騙された? とか、殺される? とか、やっぱり他人を信じるもんじゃない。とか、間近で見ると意外と若い女の子受けしそうなダンディーな顔してるな、コイツ。なんてことが、 一瞬の内に俺の脳裏を巡った。……。…いや、待て。ちょっと待て。今なんか、全然違うものが最後に混じってなかったか?

(――間近で彼の顔を見るとって…? …ん? んんーっ?!)

気付くと、正体不明の生暖かくてざらりとした感触が、隙間無く唇を覆っていた。彼と俺の顔の距離は間近どころかもう無いに等しく、 暖かい鼻息が頬を擽ったり長い銀色の睫が俺の瞼に触れたりしている。呆気に取られて固まっている俺にお構いなく、 ルシウスは指を絡ませて俺の腰をぐいと引き寄せた。何だこれ。本当に何なんだよ、これ。何とかしなきゃ。何を? 誰を? どうやって?

頭がパニックを起こして、 もう如何していいか分からない。俺、今、一体どうなっちゃってんのさ?

キーン! 突然、金属が反響するような甲高い音が足元近くで響いた。ルシウスの手の中にあった空薬莢が、石造りの地面に落ちた音だ。 続いて、泥が跳ねるような水音がする。それは何気ない音だったが、俺の意識を正気に戻すには十分すぎる程の大きさだった。

見開いたままだった両の瞳で彼を勢い良く睨み付け、思い切り突き飛ばそうとする。ルシウスはそれを予想していたかのように、 再びカメレオンのような素早さで大きく数歩、後ろへ退いた。ちっ、と、俺の舌を打つ音が、泥水の跳ねる音に紛れて沸き起こる。 後味を味わうように、ぺろりと自分の唇を舐める所を見せ付けるルシウスの様子は、腹立たしいを通り越して俺の中の何かを爆発させた。 所謂堪忍袋などという奴ではない。それはもうとっくにズタズタに引き千切れている。

「ちょっ…! な 何すんだっ…ッッ!!? 唇が…舌、今舌も入ってた…? …ひいぃぃッ!」
「何って…。…単なる愛の口付けだが? 何か問題でも?」

大有りだ。こっちが先程から言葉遣いに気を遣うことも忘れて、滅茶苦茶に取り乱しながら大声で喚き散らしているというのに、 にこにこと、当たり前のことのように首を傾げながら可愛らしさを装って笑うルシウスを見ていると、 兎に角殺意が溢れて止まらなかった。愛の口付け? なんだよソレ! 笑えない冗談 打ちかましてんじゃねーよ、糞野郎! 心の中は放送禁止用語のオンパレードだ。

「男とキスするなんて、ホモかッ?! ホモなのかっ!? お前!」
「失礼な。私には妻も子もいる」
「じゃあなんでち…ち…ちゅぅーとか…っ!」
「妻子はいるが、お前のような可愛い奴は別腹だ」

一瞬、彼が意図することを掴むことが出来ずに、俺は大きく口を開けたまま目をぱちぱちと瞬かせている 状態でフリーズしてしまった。相も変わらず、ルシウスは穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。 何かが繋がった音がして、俺は恐る恐る言葉を紡いだ。

「それって、やっぱりホモってことじゃ…? …もしくはバイ?」
「……。ふむ。…まあ、そう言えないことも無いのかも知れないな」

納得したように頷くルシウス。…だが、俺はそれ所ではなかった。今なら、この男と対峙してから ずっと感じてきた不快感の正体が分かる。前にも同じものを二度味わっていた。―― 一度目は親友と思っていた男に 襲われそうになった時。二度目は、新宿二丁目に潜入捜査した時。つまり、俺が一番大嫌いなもの。

ホモに狙われている、という不快感だ。

現在置かれている状況を理解出来た途端、ぞわぞわぞわ! という悪寒が、蟻の大行進のように背筋を駆け上がっていった。 思わず腕を見ると、鳥肌が一見しただけで分かる程激しく立っている。いつもなら恐ろしいほど早い回転率を誇る自慢の状況判断能力も、軽く爆発済みの頭では、これから如何すれば良いのだろうかと考えてみても、 全くと言って良い程何も思い浮かばなかった。

「私は運命というものを信じていてね。君の警戒心丸出しで威嚇する姿は余りにも可愛らしかった」
「……。…は?」
「君は私の運命の相手だ、と言っているんだよ」
「……」

開いた口が塞がらないというのはこういうことを言うんだと、しみじみ思い知らされた。漫画なんかだと 勢いの良い関西弁のツッコミをかましたりするものだけど、現実で遭遇すると、もう乾いた笑いしか出て来ない。 甘い言葉を囁いて格好を付けている目の前の男は、もはや俺にとって政府の要人でも何でもなく、唯の変態である。

じり…と、ルシウスが俺との距離を一歩詰める。何だかその気迫に圧されて、俺は右足を一歩後ろへ動かす。額に浮き出た冷や汗が一筋、瞼を下り、瞬いた時に睫から 滴り落ちた。心境としては、蛇に追い詰められた蛙か、猟犬に追い詰められた狐、と言った所だ。

ルシウスの背後に黒い邪気の塊のようなものが渦巻いている気がして、 俺はひくりと唇の端を持ち上げて引き攣った笑いを浮かべた。意図的にそうした、という分けではなくて、本当に笑いを浮かべることしか出来なかったのだ。

怖い。逃げたい。銃弾や流血に全く怯む事無い俺が、脅えている。――たった一人の、ホモ野郎 に。
なんとまあ、情けない。だけど俺はプライド何かよりも自分の身と尻の穴の安全を優先させたいんだ!

「何一つ不自由などさせない。だから、私と一緒に来ないか? 愛しい人」
「…ぃ」

俺は、甘党だ。甘いものが大好きだ。…だけど、今彼が発している世間一般で言う甘い言葉とやらは、 普通男が女の子に言ってあげるものであって(または、男が女の子に言って貰うものであって)別に、他人の趣味趣向に文句を言うつもりは無いけれど、 そういうのは俺の与り知らぬ別世界でやって欲しいし無関係の俺を巻き込まないで欲しいし  好い加減、吐き気もして来たし何だか眩暈もするし頭痛が酷いし …ん? …って こっち来るな寄るなあっち行け止めろうわあああぁぁぁぁ…!

ぶちぶちぶちっ! と、断続的に何かが切れる音がする。多分、俺の血管だ。
取り敢えず、もう限界だった。

「男に告白されても嬉しくないし、気持ち悪いだけだあぁー…ッ!」

力の限り大きな声で有りっ丈の嫌悪感をぶちまけ、俺は今まで経験したことが無いくらい機敏かつ 俊敏な動作で回れ右をし、脱兎の如く逃げ出す。ヴォルデモートについての情報収集が済んでないことや、 薬莢をまだ回収していないことなどは、一片も頭に残っていなかった。

もう、一秒たりとも彼の視界に入っていたくない。俺はその時、 人生初、オリンピックの短距離陸上選手並に早いスピードでノクターン横丁を走り抜けた。 これって火事場の馬鹿力なんだろうな、なんて考える余裕すら無かった。正に命がけの逃避行だ。

その時は確かに、全ての神経を右足と左足を動かす為だけに費やしていたはずなのに、ルシウスが後ろの方で小さく「また会おう、運命の人」なんてふとんがふっとんだも真っ青の寒い台詞を呟いているのが聞こえてきてしまったので、 重度の眩暈を鎮める為に、俺は必死に意識を保つ努力をしなければならなかった (同時に脳裏に浮かんだルシウスの気色悪い微笑は速攻で脳内から削除した)

精神的なダメージが大き過ぎてへろへろになりつつも、やっとのことで宿屋に辿り着いた時に 「お帰りなさい」と笑顔で迎えてくれた従業員が天使に見えた。というのは、勿論言うまでも無い。



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