色褪せた白いタオルを、水が張ってあるクリーム色をした洗面器の中に浸す。
ひんやりと冷たい感覚が掌を包み、水を吸ったタオルが程よい重みを与えてくれた。
雫が滴る布の塊を思い切り力を込めて絞って水分を抜くと、勢い良く流れていた水もやがて水滴となり、
しばらく力を抜かずにいるとやがて何も落ちて来なくなる。 それをそっと折りたたんで、慎重に目の前に横たわっている男の額に乗せた。この作業は、これで七回目。 俺は溜息を深く吐きながら、ゆっくりと黄ばんだ高さの無い天井を見上げた。…まだ、セブルスが目を覚ます様子は無い。眠っている顔は、 まるで死んでいるかのように冷たかった。 ――拷問したせいでもうぼろぼろになってしまった男を路上に放置したまま、吐いた後意識を失ってしまったセブルスを引き摺るように宿屋へ連れて入ったのは、六時間前のことだ。 大の男が自分よりも身長の高いこれまたいい歳した男を引き摺って入ってきたのには、流石にホテルの従業員も怪しんだと思う。泊まるつもりは無かったので、 部屋代を節約する為にシングルルームを頼んだのも不味かったかもしれない。自分がホテルの従業員だったら、 即座に追い返していた。箒を振り回しながら「このホモ野郎!」と怒鳴っていた。塩を一袋分まるまる撒いて、消毒液をそこ等中に散布していたことだろう。 面倒な事態は、誰だってお断りだ。 けどホテルの従業員が結局は何も言われずにシングルの部屋の鍵を渡してくれたのは、もしかしたらこういう事態は初めてでは無かったからかも知れない。 イギリスは同性愛者には厳しかったと思うのだが、魔法使いはその限りではないのだろうか? …それにしてもまさか、変な誤解をしてる、なんてことはないと良いのだけど。 特にセブルスは本業が教師なわけだし、変な噂が立ったら死活問題だ。 スネイプ先生ってホモなんだぜ、と、授業中に生徒から後ろ指を指されたり石を投げられたりする彼の姿を見せられるのは、流石に良心が痛む。 軽く不謹慎な懸念をしつつセブルスをなんとかベッドに横たわらせ適度に看病をして、 その後一人で情報収集に出掛け高飛車な態度の変な男に絡まれ、気疲れしたので宿屋に戻ってきたのが二時間前。 ――そして、今に至る。 こうして静寂の中で彼の寝顔に向き合っていると、留まる所を知らないように湧き上がってくるのはえさを運んでいる途中の虫を潰してしまったような、紛らわしようの無い酷く苦々しい感情だった。 もしかしたら、セブルスに消しようの無いトラウマを作ってしまったかも知れない。もし彼が毎夜毎夜夢の中で繰り返しあの拷問された男が苦しむ声を聞かなければならない羽目に 陥ったとしたら、それは何の言い訳の必要もない程間違いなく俺のせいだと思う。 俺の面倒を任されている位だからきっとこういう血みどろな惨事には 慣れているだろうと思っていたのに意識を失うまでショックを受けられるなんて、完全に想定外だ。 別に俺の落ち度では無かった。けれど迂闊だったことは否めない。もしかしたら、役立たずの優男だと罵られて無意識にむきになってしまっていた 部分すらあったのかもしれない。反省すべき点は、沢山ある。もうどうしようもないことなのに、彼の頬に掛かった髪を指で除きながら、俺は後悔せずにはいられなかった。 「……。…ここ、は…」 「スネイプさん? 気が付きましたか?」 擦れたような声が聞こえて、俺は慌ててセブルスの顔を覗き込んだ。彼の両目は眩しいのに耐えるように薄っすらと開いている。 その眉間には何時もの彼らしく、深い皺が刻まれていた。 まだあまり意識がはっきりしていないのか、猫のような緩慢な動作で上半身を起こして目を擦る姿は子供のようだ。 それが俺の中の後悔の波をもっと大きく際立たせる。彼の額に当てていた濡れタオルが、ぽとりと彼の膝の上に落ちた。 「…ここは――?」 「宿屋です。貴方が気絶してしまったので、ここまで運びました。…重かったですよ」 妙な安堵感に包まれて、俺は口元を緩めながら無意識に「良かった」と小さく呟いた。 そんな俺の様子をじつと見つめてくるセブルスの瞳は虚ろで、あまり感情が読めない。何を、考えているのだろう? 突然、セブルスの腕が伸びたかと思うと、物凄い力で俺の腕を掴んできた。縋る様に頼りない表情で、けれども俺の腕を 掴む彼の指は喰い込んで来る程痛い。 漆黒の双眸で逃がさないようにしっかりと俺の姿を捕えたセブルスが何かを吐き出すように発した言葉は、残酷にも、やはり俺が聞きたくないと望んでいた内容だった。 「――何故、あの男に『あの人』の居場所を聞こうとした? 彼が『あの人』と関係があるかどうかなんて、そんなこと分からなかっただろう…それにしたってあんな…あんなことしなくても…」 先程まで繰り広げられてた惨劇を思い出したのか、セブルスは吐き気を抑えるように口元を掌で覆って身体を丸める。俺のことを非難する彼の悲しみに濡れた悲痛過ぎる声音は震えていて、まるで俺がノクターン横丁に入るのを止められなかった自分自身に全ての責任があるのだと 深く後悔しているかのようだった。 天井と同じように色褪せた緑色のカーテンがゆらゆらと幽霊の着物のように揺れて、風の通り道を緩く描いている。 セブルスが望む言葉を返すべきなのか、それとも誤魔化すべきなのか、真実を話すべきなのか…俺は本当は感じている筈の激しい動揺を、無理矢理身体の中に押し込めた。 俺があの男を拷問したのは、別に彼がヴォルデモートと繋がっていると確信していたからではない。その可能性が無い、とは言い切れなかったから…ただ、それだけだ。 下手な鉄砲数打ちゃ当たる、とも言う。もっと平たく言えば「ちょうど良い所で襲ってきたんで、ついでに何か知ってないかなーって思って拷問しちゃいましたー。あはははは!」ってな感じだ。 もしあの男が本当にヴォルデモートと何か関係があったとして、「お前はヴォルデモートと繋がっているか?」と馬鹿正直に尋ねていたら、彼は嘘を吐いていたかも知れない。相手に嘘を考え付かせる余裕を与えないのは、情報収集の時の基本だ。 だけど、あの男からして見れば何故あんな質問をされたのか分からなかっただろうし、第三者のセブルスから見ても俺の行動は突拍子の無いものに見えたのだろう。だから俺の起こした行動は、理由の無い享楽的で酷く非道なものに感じてしまう。きちんと理由があるにも関わらず。 ただ――こんなことを説明しても、 セブルスは「人道的に問題だ」と言うに決まっているのだ。 話せば誰しもが分かり合えるなんて、そんなのは唯の夢物語で理想論で妄想で。 結局は不可能なことなんて世の中には幾らでもある。それが悲しい事かどうかは別として。 「少しでも可能性があるのなら、それをするのが俺の仕事です。何か問題でも?」 「つまり、無関係の者をああまで痛めつける野蛮なことがお前の仕事だと言うわけか?」 「そうですよ。それが、俺の仕事です」 感情を含めない声で静かに肯定すると、鼓膜を破るような激しい罵り声と、ぱしん、と乾いた音が音の無かった部屋に大きく響いた。真正面を捉えていた筈の視界が斜め上を向き、頬はじんじんと痛みを訴えている。 …何が起きたのか、一瞬、理解できなかった。 大きく見開いた両目でセブルスの姿を捉えると、彼は微かに潤んだ瞳と硬く引き結んだ唇で、まるで俺のことを 威嚇しているかのように睨んでいる。その掌は、俺の頬と同じように赤い。こんなに感情を剥き出しにしている彼を始めて見たので、状況が状況だというのに、何故だか少し嬉しかった。 「――今、我輩は貴様を心の底から軽蔑している」 「そうですか」 ぎりぎりと歯を鳴らしながら本心を露にして吐き出してくるセブルスとは対照的に、淡々とした口調で返して、俺は心を殺して微笑みながら俯く。 情けないことに、彼の視線を真正面から受け止められるだけの勇気は俺には無かった。 わかってはいた。俺が就いているのは、やはり周りには受け入れられがたい職業だ。俺だって好きじゃない。 でも、仕事を投げ出して逃げるなんてことをする自分は、もっと嫌いだ。だから、逃げない。 俺が逃げても、他の誰かが俺の代わりに誰かを殺さなければならなくなるだけだ。 躊躇わず、考えず、悩まない。魔法使いを相手にマグルが躊躇するということは、刹那を争う現場で、いつも死に直結していた。 悩めば、疑えば、誰か大事な人が死ぬ。殺すのは嫌いだが、何も出来ずに死なせるのはもっと嫌だった。 俺が一瞬でも引き金を引くのを躊躇ったせいで死んでいった同僚達の為にも、もう悩むことは許されない。 例え道徳的に何が間違っていようと、それが間違いだと誰かに言われようとも、自分自身を信じられなくなったとしても、 俺は二度と、仕事を全うしなければならない是非だけは疑わないと決めていた。 「理解し合えないのは、残念です。…が、貴方が俺をどう思うかは、貴方の自由だ」 「……。…罪悪感は無いのか?」 「与えられた仕事をこなしたまでです。罪悪感を感じる理由は無いでしょう」 有無を言わせない断定的な口調でそう告げると、セブルスはもう何も言い返して来なかった。 けれど納得した訳ではないというのは、彼の激昂したような色の瞳を見れば分かる。彼はこんなに感情的な 性格をしていたのだと、今更な事ながらに強く思い知った。 静かに立ち上がると、セブルスは脅えた様に少しだけ身体を痙攣させて左腕を押さえる。 そんなに脅えなくてもいいのに。と、心の中でそっと呟いて、俺は洗面器を持って中に入っていた水を窓の外に飾ってあった花鉢へと注ぎ捨てた。 水滴を弾く桃色や薄黄色のポーチュラカは、何の悩みなど抱えていないと思える位華やかに咲いている。引き千切りたい程綺麗だった。 罪悪感を感じないのは嘘だけど、別にセブルスに理解されなくても構わないと思っているのは本心だ。 理解して貰う必要は無い。セブルスはただの仕事相手の一人であり、仲良く出来ればそれに越したことは無いものの、 仕事に支障を来たさないのであれば別に彼がどう思おうと構わなかった。個人的に親しくしたいと思えるような 相手でもない。 「…もう立てますか?」 「平気だ。触るな」 「……。…それだけ憎まれ口が叩ければ大丈夫ですね。行きましょうか、スネイプさんの家に」 ――帰りましょうか、とは、言えなかった。 |