Chapter X 魔法薬学 教授の憂鬱



何とも馬鹿げた考えだ。

つまり、は我輩に会う為にホグワーツ魔法学校に来たのだと、例え一瞬であったとしても思い込んでしまったことは、我輩にとって一生の屈辱とも言える過ちだった。

彼が何故幼い姿で新入生に紛れて我輩の前に頓挫しているのかは、左程重要な事実では無い。
そんな不可思議は、彼に関して述べるなら、特に珍しいことでも無いのだから。

けれども――何故彼は態々そうまでして、此処に来たのか?

少し頭を働かせれば分かることだった。我輩に会う為などという夢見がちな理由では決して無いのだ、ということが。 その証拠に、の視線は殆ど常のように、ある一点を食い入って見つめ続けていた。
…クィレルの元へと。

宴会のご馳走を頬張る生徒達の間を縫って、悪戯っぽくクィレルへ向けられるの微笑は、本当に楽しそうに見えた。 まるでクィレル以外のものなど視界に入らないようなの態度と、と視線が交わる度に気まずそうに視線を逸らすクィレルの姿に、妙な苛立ちが募っていく。

無意識に、ミネストローネを何度も何度も掻き混ぜた。思い出したように一口飲むと、それはもう冷め切っている。 冷たい感覚に目を覚まされるように、我輩は思いを心の中で言葉にする。冷静になれ…。
がクィレルに固執するという事は、つまり、彼がヴォルデモートに非常に近しい何かを掴んでいるという事を示しているのでは無いのか?

では、ヴォルデモートの目的は? ――そんなもの、一つしか無い。賢者の石だ。

ぷつりと、フォークを突き刺した鳥の腿肉から肉汁がまるで血のように溢れ出した。脂っこい匂いがつんと鼻を衝いて、軽い吐き気と眩暈に襲われる。

もしも、の目的がヴォルデモートと同じように(寧ろヴォルデモートの為に)賢者の石を奪うことだったら?  そうだとしたら、その時我輩は、彼から賢者の石を守りきることが出来るだろうか。

結果は見えていた。
結局はの望みの通りに操られてしまう自分がいる。

焼き立てで香ばしいパンを乱暴に千切りながら、浮かびそうになる自嘲の笑みを懸命に押し込んだ。
今更、何に脅えているのだろう。ダンブルドアを裏切ることか? 再び訪れるであろう闇の時代にか?  へこの身の全てを捧げようと誓っておきながら、一体何を後悔しろというのだ。

小さく揺れる蝋燭の煌びやかな明かりと食事から溢れる湯気の暖かさが、まるで催眠術をかけているかのように思考能力を急激に低下させていく。 或いは、単に疲れているだけなのかも知れない。

…クィレルへと目を移すと、偶然にか視線が合った。彼は相変わらず戸惑ったように眉尻の下がった曖昧な微笑を口元に浮かべている。 そんな卑屈な様子を感慨なく見返して、コーヒーを一口喉の奥へと流し込むと、程よく慣れた苦味が、 いつもの平静な感覚を少しだけ蘇らせる。

迷いなど無い。迷ってはいけない。もう逃げるという選択肢は残されていないのだから。

自身に言い聞かせなければ決断出来ない己の器の小ささを苦々しく感じながら、一気に残りの黒い液体を口の中へと注ぎ込む。 それでも、口腔に広がる後味の苦味では胸中のしこりを拭い去ることは出来なかった。 の微笑み、クィレルの困ったような表情、胸の痛み。頭痛。

鈍い痛みでじわじわと漣のように締め付けられていく。まるで項に雨垂れを一定感覚で打ち付けられるような、淡く頼りなくて、 それでいて残虐な拷問のような仕打ちに、我知らず溜息が漏れた。 けれどそれすらも、生徒達の他愛無い雑談に掻き消されて虚しく散ってしまう。

結局――最後まで、は此方を見ようとはしなかった。















「こ…こ、これから授業ですか? セブルス」

聞き取りづらい濁った口調で、クィレルは机越しに尋ねてきた。
軽く無関心を装って一瞥した後、視線を伏せて書類を整えながら我輩はそっけなく返答をする。

「ああ」

そこで会話を終わらせたつもりだったのだが、一体何を考えているのか、クィレルは猶も不自然な笑顔で 語り掛けて来た。それはまるで、此方の意図することに対して全く関心の無いようにも取れる。

「ど、何処の…学年、で、ですか?」
「…スリザリンとグリフィンドールの一年だ」

ほんの束の間、クィレルの双眸がまるで振り子のように左右に揺れる。だがしかし、そのある種人形を思わせる全く動かない表情の下からは 何の情報も読み取ることが出来なかった。

クィレルとの会話が途切れ、何とも気まずい、重々しい沈黙が降りる。 授業直前の教授は皆忙しそうに次の授業の準備に勤しんでいるので、暫く職員室には紙の擦れる音とペンが文字を綴る音だけが 響いていた。

――再び、クィレルの淀んだ声音がそれを打ち壊す。

「そ…そそそれは、楽しみですね」

それはポッターのことを言っているのか。 それとも、を示唆しているのか。
もしくは、他意等無いただの社交辞令なのか。

彼の正確な真意は測り損ねたが、無意識に感じる「何か」…言うなれば死喰い人として生き残る為に培われた本能的な何かが、 この男は危険因子であると、一時も休むことなく警鐘を鳴らし続けていた。

「…ああ。非常に楽しみだ」

弄ばれているだけなのも癪なので、意味深な返事をして、我輩は立ち上がる。
やはり能面のように変わらない彼の表情と、燃え盛る炎の様な強い瞳の対比が妙に印象深かった。

――クィレル自身は、のことをどう感じているのだろう? 

授業に遅れそうなのか騒々しく廊下を駆けてゆく生徒達の横を淡々と通り過ぎながら、ふと、昨晩届けられた手紙のことを思い出した。

手紙を運んできたのは、自分には不釣合いな、あまりにも見事な毛並みの真っ白な鷲梟だ。
差出人の欄には『ルシウス・マルフォイ』と、見事な筆跡でサインが施されていて、 軽やかに飛び去る梟から目を外しながら封を破ると、高級そうな便箋にはやはり一面に達筆な文字が並んでいた。

息子がホグワーツに入ったので宜しく頼む、とのこと。
…そして、締め括りは他の文字よりも微かに滲んでいた。

様を、どうか』

途切れた文末からは、彼の複雑過ぎる葛藤が容易に理解出来た。 心配性な彼のことだから、出来るなら自ら傍にいてやりたかっただろうに…断腸の思いだったのかも知れない。 同情するわけでは無いが、に依存し過ぎている彼を哀れだとは思う。

をどうか守ってくれ? をどうか止めてくれ? をどうか助けてくれ?
どれにも当て嵌まるような気がしたし、どれにも当て嵌まらないような気もした。

普段使うことの無い喉の筋肉が、ひくりと震える。嗚咽のような笑い声が廊下に小さく響いた。

何を馬鹿なことを考えているのだろう。 そうまで深読みなどしなくても、 自分はにとって何の歯止めにもならないことなど、自分が一番良く分かっているはずなのに。 彼にとって我輩は、お気に入りの着せ替え人形と左程差異が無い。

哀れなのは己だと、枯れた声で蔑むような呟きが漏れた。まるで他人事の様な口調に鳥肌が立つ。
嘲笑を消した無表情な顔で全身の苛立ちをぶつけるように、我輩は強く地下牢の扉を押した。

(本当に、何とも馬鹿げた考えだ)

もう一人の自分が、囁きかけるように笑った。
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