Chapter W つよきな少女 ⇔ 赤色



ぱちんと音を立てて爪が割れた。

軽く口の中で舌打ちを響かせながら、ゆっくりと這わせるように右の掌へと視線を落とす。
全ての指先が隙無く鮮やかなシグナルレッドのマニキュアでコーティングされている中で、親指の先だけが醜く剥げて、先が欠けている。 軽く弾くと、また少し色が欠けた。 何度も胸の中に押し寄せては飲み込もうとしてくる鮮烈な苛立ちの感情を隠すように、私は左の掌で右の指先を覆う。

気に入らないことがあると爪を噛む癖は幼い頃からのもので、
精一杯気を付けているにも関わらず全くといって良い程治る気配がない。

きりきりきりきりと、爪が歯で削れる音がする。

私は石膏のように顔を硬くしながら、先程まで見つめていた少年の元へと視線を戻した。 幼い一年生が不安気に列をなして並ぶ中、ただ一人だけ、 眩い程ゆらゆらと輝く蝋燭の光とその光が作り出す影に彩られて、少年は腸が煮えくり返りそうになるほどとても魅力的に見える。

伏せ気味な睫毛が作る陰の下で光を反射する大きな瞳や、首を傾ける度にふわりふわりと揺れる柔らかそうな髪の毛。 彼の唇が小さく動く度に、その動きを余す所なく捕らえようと、男達は目を凝らす。

――止めて。私は心の中で何度も何度も何度も何度も繰り返す。
違う。止めて。そうじゃない。

アレ(・・)は、()なのよ。

長い睫毛。大きな瞳。滑らかな髪の毛。形の良い唇。彼の持っているものを、私は全部持っている。なのに、 皆は何故彼のことばかり見ているのだろうか。何故私を見ないのだろうか。

彼のいる場所にいるはずだったのは、私だ。 男達が向ける眼差しや、女達が向ける嫉妬の視線も、少年ではなく、誰よりも愛らしくて綺麗で魅力的な私に対して向けられるべきものだったのだ。今までも。そして、これからも。 他の誰でもない――この私に。

 ・
「はい」

細波のように寄せては引いていたざわめきが、より一段と大きくなって波紋のように広がっていく。
広間にいる人間の視線は全てあの少年へ向かって、まるでピエロの綱渡りのように揺らぐことなく真っ直ぐに伸びている。

壇上に上がって組み分け帽子を被る彼を見て、隣に座っていた男がこそりと私の耳へ唇を寄せて来た。 もうすっかり慣れた生暖かい息遣いを男が押し殺そうとしているせいで、逆にいつもよりこそばゆく感じてしまう。不快だ。何もかもが不愉快だ。

って呼ばれてたよな? あの子」
「……」
「可愛いな」
「…そうね」
「キャシー? …何怒ってるんだよ?」

にわとりよりも無神経な隣の男は、心底不思議そうに首を傾げている。
先週の水曜日に、君ほど可愛い子なんてこの世に存在しないと、今喋っているのと同じ口で私のことを口説いてた癖に。 何に対して怒っているのかなんて、良くもまあ平気でそんなことが言えたものだ。

全く色の違う感情が、眩暈のするほど凄まじい勢いで混じり合う。

「スリザリン!」

いつ見ても気持ちの悪い動き方をする深緑色の小汚い帽子が、朗々とした声で寮の名前を叫んだ。 ぎちぎちと大きくなった爪噛みの音は、爆発したかのような周りの歓声に遮られて、誰に聞かれることも無く喉の奥へと消えていく。

頭が割れそうなほどに痛い。よりにもよって、同じ寮に入ってくるなんて、なんと不運なんだろう。
彼に関する一挙一動が、私の限界まで張り詰めた感情を不快感で締め付けていく。

隣で、呆れるほど無邪気に少年がスリザリンに入ったことを喜ぶ男を、伏せた瞳で冷ややかに睨み付けた。それだけでは、この吐きそうなほどの嫌悪感は収まりそうもない。 少年が(名前など覚えていたくはないが、そう、と言っていた)私の目の前の椅子に腰をかけた時点で、既に私の米神に張り巡らされた血管は、 物凄い勢いで循環して今にも破裂してしまいそうだった。

けれどもこの少年に対しては僅かでも隙を見せたく無いという ただその一心が、私の意識の全てを支配して、私をこの場に留まらせている。 私は艶やかな笑みを浮かべ、全身全霊を以って、忌まわしい彼に微笑みかけた。

「初めまして。私の名前はキャシー・ハンニバルよ。今年で五年生になるわ」
です。宜しくお願いします、キャシー先輩」

いっそ卑怯なほど綺麗な微笑みを返されて、力の限り張り倒してしまいたいのを必死に我慢しながら、私はにこりと首を傾げた。 机の下で、固く握り締めた拳が止めようの無いほど激しく震えている。

組み分け帽子叫んでいる寮の名前や、他の生徒の話し声など、まるで聞こえてこなかった。

今すぐ私の視界から消えて欲しい。 それとも、頬を張り倒して醜く泣きべそを掻く惨めな姿を笑いながら見下ろしている方が楽しい だろうか? 快感と優越と陶酔に塗れながら、私は言うのだ。誰もあなたを助けてなどくれないのよ、と。

――実際の所、そんなものは幻想でしかない。

「君、本当に男?」
「え。そうですけど」
「いや、ごめん。凄く可愛いから」
「あ…ありがとうございます」

虫けらのように無能な男に話し掛けられて何がそんなに楽しいのだろうかと(どうせ社交辞令に決まっているのに戸惑いながらも照れて嬉しそうに笑う)目の前の少年を、 私は半ば馬鹿にしたように眺めていた。

欠けた親指のマニキュアを、人差し指の爪で擦る。 次は何色のマニキュアが良いだろう?
スカーレット、オールドローズ、バーミリオン、ワインレッド…。
余り派手な色だと注意されるけれど、ラメを入れるくらいならいいだろうか。
…どんな小さな動作すら 見逃さないようにじつと彼を凝視し続けて――。ふと、我に返る。

まるで、この少年に踊らされているみたいだ。

上唇を指先でそろりそろりと辿りながら、極めて冷静になろうと努力する。
よくよく考えてみれば、もしかしたら彼が新入生だから、皆興味を示しているだけなのかもしれない。 しばらくすれば、やっぱり私の方が可愛くて優れているのだと、誰もが気付くことだろう。
そうだ。そうに違いない。

ようやく心を落ち着けることが出来た。その瞬間――私は、見た。

それは瞬きをすれば見逃してしまうほど短い時間で、一瞬、それが何を意味するのか理解出来なかった。 けれども彼の…の掌の間の僅かに漏れた隙間から見えたのは間違いなく、 三日月を模ったかのような陰湿な冥い唇の端。

本心を隠して周りを騙して自分以外の全ての人間が愚かだと思い込んでいる、狡猾な人間の卑しくて悪辣な表情だ。

彼と私は同じ。あれは私と同じ。アレは私。
ただ綺麗な振りをして本当は誰よりも汚いのを、上手に上手に隠している。

それが見間違い等ではないのだと確信した刹那、私の身体中を、余す所無く物凄い勢いで高圧電流のような痺れが駆け巡った。 心臓が、荒縄で縛られたようにぎちぎちと痛む。
…何よりも許せないのは、彼にとって私が『見下される』側にいるという事実だ。

「……。調子に乗ってんじゃないわよ…」

頭を締め付ける痛みが増していく。がしがしがしッ。爪噛みだけは我慢が出来ず、唇を強く強く噛み締める。がしがしがしッ。ぷつりと嫌な音がして、グロスを塗った唇に舌を這わせると、 鉄が錆びたような下品で不味い味がした。がしがしがしッ。今にも少年の首を締め付けようとする右手を何とか左手で押し留める。 がしがしがしッがしがしがしッ。

ふいに誰かの視線と何か不吉な予感に駆られて、勢い良く顔を上げた。…周辺の誰もが、私を見ている。奇妙なほどに静かで、気まずい雰囲気が流れていた。

何が起こったのだろう? 私が事態を把握するよりも前に、ひくりと小さな嗚咽が、目の前の席から漏れる。 その傷付けられた仔羊のような声音に、失態を演じてしまったのだ、という、曖昧なようなそれでいて酷く確信的な不安感に襲われた。 天井の近くで、蝋燭の炎はいつまでもゆらゆらと揺れている。

「ごめんなさい…」

そう謝罪の言葉を呟きながら、目の前で少年は、無色透明な色をした雫を双眸から止め処なく溢れさせる。 男なら誰でも肩を抱いて慰めてやりたいと思うであろうその頼りなくて愛らしい姿は、今の私にとっては 八つ裂きにして殺してやりたいほど憎く見えた。私は一体、何をしてしまったというのだろう? 分からないという 恐怖が、追い風のように勢い良く私を煽る。

何故皆、私のことを責めるような目で見るの?

「『調子に乗ってる』は無いだろ。キャシー」
は良い子だよ。なんでそんなこと言うんだ?」
「もしかして、が可愛いから嫉妬してるだろ?」

口々に向けられる宥めすかすような罵倒の言葉に、ようやく心の中で叫んでいた言葉を 口に出してしまっていたことに私は気が付いた。 自分でも、顔から血の気が潮引きのようにさぁっと引いていくのが良く分かる。

思わぬ失敗を犯してしまった緊張で、唇が固くなって動かせない。
それよりも、何と取り繕えば良いのかすら頭の中には浮かんでこなかった。

「だって…だって、その子が…。…今、その子、笑って…」

何と言い表せばいいのだろう。助けを求めるように周りを見回したが、誰一人として助け舟を出そうとしてくれる者などいない。 注がれる敵意の視線が強くなり、私は怯えていることに気付かれないように、 無我夢中で意識の海を泳ぎ回った。他の寮から響く笑い声が、現実味を奪ってゆく。

「ごめんなさい…。…きっと、俺が何かキャシー先輩の機嫌を損ねるようなこと、しちゃったんですね」

白々しくもしおらしさを装って、目の前の悪魔は目尻から零れる涙を指先で拭う。 彼の爪はマニキュアを塗っていないのに艶めいて、桜色に染まったそれは酷く目を惹かれるものがあった。

自分の爪に視線を落としてみれば、無意識に噛んでしまったのか、マニキュアは剥げておぞましい赤い色が血のように見苦しくこびり付き、歯型すら残っているほど 先が醜く変形してしまっている。惨めな有様に、込み上げそうになった嗚咽を、私は力一杯隠しこんだ。

ここで泣いてしまっては、負けるような気がした。

暖かい湯気を立ち昇らせる料理も、甘く蕩けそうな焼き菓子でさえも、舌の上で転がる無味無臭の異物のように感じられる。 芳醇な香りのラズベリージュースを喉の奥へと流し込むと、果実の苦味だけが痺れるような傷みを舌の上に残して紅い液体は胃の中へ流されていった。

瞳を瞬かせて滲んだ涙を誤魔化し、誰にも気付かれないように私は少年を鋭い刃の切っ先を向けるように睨み付ける。 彼は敏くそれに気が付いて、やはり卑怯な程綺麗な微笑みを浮かべた。――それが演技だということに、私が気付いていることを知っていて、猶。

周りの視線に阻まれて今は為す術が無いことを呪いながら、私は心の中で縋る様に何度も呟いた。
誰か、彼を殺して。

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