いないはずの彼が近くにいるような気がして、瞼を閉じるのが怖い。 どっちつかずの蝙蝠のように、灰色の場所に一人で佇むしかない我輩とは違う。 彼は、眩しい程光り輝いているのに、誰よりも闇の中へと行きたがっていた。 切り刻んで、焼いて、炒めて、食べて。体の一部にしてしまいたい程綺麗な存在。 誰よりも大切な人。 勿論そんな野蛮なことは決して理性が許さない。 そもそも我輩が彼に指一本でも触れる前に、ヴォルデモートが我輩を斬り、気障んで、妬いて、痛めて、生ごみとして処分していただろう。 それでも我輩は、矮小で醜くて救いようのない欲望を心の隅で抱えていた。 まるで、食人鬼のように。 「そうだな。それが選択なら、止めはしないさ。だが…」 「なんだ? まだ何か反論してくる気か? ルシウス」 「誰も、逃げきることは出来ない。それは、セブルス。お前も同じだ」 今思えば、ルシウス自身も我輩と同じように行き場のない思いを抱えて、そのもどかしさに一人、苦悩していたのだろう。 けれども彼とカウンターで会話を交わしていたその当時の我輩にそんなことなど分かるはずも無く、余裕を装うルシウスに 対して軽い罵倒を吐き出すことしか思い浮かばなかった。 ルシウスの言っていたことが正しいかどうかは分からない。 この想いが、ルシウスと同じように、への愛なのかどうかすら、分からない。 愛してるというのは、どういうことだろうか。 この感情は、薄汚く、そして歪んでいる。それでも時々、心の奥底で、尊いと感じてしまう。 何をしても失いたくない、自分の一番綺麗な部分だと思い込んでしまう。 身体が引き裂かれそうなほどの内心の葛藤は、「愛してる」という、五文字、たった五文字の言葉に納められる程、小さなものなのだろうか。 それとも、理解することなど不可能な程入り組んで絡み合った欲望すらも、「愛してる」という言葉で表すことができるとでもいうのだろうか。 どちらにせよ、想いが相手に伝わらなければ意味が無いのだ。 でなければ、「愛してる」という言葉は、結局たった五文字分の価値しか持つことができない。 何をしたいかはわかっているのに。そこへ辿り着く為の道標が、歯痒いほどに分からなかった。 そして――流れ星が空を埋め尽くし梟の翼が羽ばたく音が絶えることの無かった夜。 ついに――ヴォルデモートという歯止めを失った夜。 何よりも大切で誰よりも近くにいてやりたいと思った少年の元から、我輩は、逃げ出した。 ただ、ひたすら、怖かったのだ。 もう何も、誰も、我輩が彼を食おうとするのを止めてくれるものがないのだということが。 この茶色い爪が彼の柔肌に喰いこみ子猫のような肌を破り血管を裂き肉をこそげ落とし舐めて啜って喰い千切って喚起の 咆哮をあげる瞬間を想像するだけで鳥肌が立ち震えが止まらなくなり口の端がひくひくと痙攣する自分が、誰よりも怖かった。 彼を傷付けてしまうことが、どんなことよりも怖かった。 だから、我輩は彼が行きたがっていた闇とは反対の、自分には全く似つかわしくない吹雪いた後の早朝のように遥かな白い世界へと飛び込んだのだ。 まるで、何かに懺悔するために。 (夢の中の少年はいつも泣いている) 今でもこれが愛なのかは分からない。 入学式前の、特にホグワーツのような生徒数の多い学校の教師というのは、多忙だ。 確かに、毎年一人か二人碌でもない生徒が入学して来るのは通例ではあるのだが。 だが、今年は全く不愉快極まりないことに、ハリー・ポッターという鼻持ちならない自信過剰の悪餓鬼が、 その救いようも無い程小さく容量の少ない脳味噌に、精一杯の知識を押し込む為に、入学して来ることになっていた。 勿論、高く天まで伸びきっている彼の鼻を力付くで圧し折ることに、少しの躊躇いも努力を惜しむつもりも無い。 しかし、間違いなく平穏な仕事環境は望めないであろう。嘆かわしいことだ。 寝起きに思い出したことで苛々し、我輩は乱暴にシーツを剥ぎ取った。 朝仕度は毎日同じで、手順を変えることはない。 苦手な髭剃りをいつものように時間を掛けて丁寧に行ない、どれも大してデザインの変わらない服の中から無造作に一着を選んで袖を通す。 夢見が悪かったせいか妙に減っていた腹を、イングリッシュマフィンとポーチドエッグとベイクドトマト、それにソーセージ、ベーコン、マッシュルームのソテーで たらふく満たした。 ブラックコーヒーで全てを胃の中へ流し込んだところで、出掛ける準備を始める。 食べ終わった後の食器は夕食の後纏めて洗えば良いだろう。 今日は予定が押しているからいい加減もうそろそろ出なければならない。 神経を集中させて、通い慣れた暗い路地を細部まで想像する。次の瞬間には足裏でじっとりとした汚い石畳を踏みしめていた。 通りの名が記された表札を、満足気に双眸を細める。 「ノクターン横丁」――そこには、そう記されていた。 確かにここはホグズミートやダイアゴンに比べて治安は悪いから、人通りが極端に少ない。 我輩は何の躊躇いもなく、けれど急く様に足を一歩踏み出した。 「――」 …背後から掛けられた懐かしい声と呼び名に、心臓が鷲掴みにされたように縮まった。 「セヴィ」 固まって石のように動かない体を、せめても動かそうと、拳を握り締めようと試みる。 しかし、それすらも出来ない。喉が干上がってごろごろ鳴る。気持ち悪い。 見つかった。見つかった。もう駄目だ。 突如、酷い空腹感に見舞われた。背後にいる彼の晒す喉元を想像して歓喜している自分に恐怖する。 彼の瑞々しい赤ワインのような血を、通り一面にぶちまける前に逃げなければ。ほら早く。 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ! だが、本能は僅かに残っていた理性すら粉々に砕いて、砂のように吹き飛ばして、 二本の足をその場にしっかりと縫いとめて、我輩が逃げられないように食い止めた。 大切な人を傷付けてしまうかもしれない恐怖よりも、胃の中を彼で満たしたい空腹感よりも、 自分が彼の手で殺されるかもしれない歪んだ征服感よりも、ただ。 に再び会えた。そのたった一つが、純粋な喜びで身体中を溢れて返らせる。 だが一瞬の歓喜も、彼が近づく足音で途端に霧散する。 再び、抗らえないほどの恐怖が胸の奥に競りあがって来た。 冷たくなった頭でようやく蘇った四肢の感覚を奮い起こし、振り返る前に逃げようと試みる。 前に。足を、前に。 しかし、数歩も走り出さないうちに、背中に大きな衝撃が走った。 肺が潰れたように息がつまり、そのまま泥まみれの通りへと身体が叩きつけられる。 必死に呼吸をしようともがくのを嘲笑うかのように、仰向けになった我輩の身体に馬乗りになって、 彼は奇妙な笑いを浮かべながら、じつと見下ろしていた。 我輩は、ダンブルドアに密通したスパイだ。裏切り者だ。 …そして裏切り者は最も残虐な方法で殺される。 不思議と怖くはなかった。彼が我輩を殺す瞬間、それは、きっと今まで味わったことが無い程の快楽を齎してくれるだろう。 狂信的な感情が止め処なく湧き上がり、何の制御も出来なくなって、自分が興奮しているのか脅えているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか、分からなくなる。 けれど、断罪されるはずのその瞬間はいつまで経っても訪れることなく。 変わりに、柔らかい感触が頬を覆った。頼りないほど小さなの、掌。 「セヴィ…? どうしたの? なんで、泣いてるの?」 懐かしい声。忘れられなかった呼び名。見るだけで苦しくなる、微笑み。 の心配そうな言葉で、ようやく自分が泣いていたのだということに気付いた。 湿った感触は泥に塗れて分かりづらい。 「…嬉しいからだろう」 「セヴィは嬉しいと涙が出るの?」 「…ああ」 「そっか。…なら、俺も嬉しい」 乾いた喉から搾り出すように出した声は、酷く擦れていて、自分で聞いても滑稽なほどだった。 けれどもは馬鹿にしたように笑い声を上げることなく、優しく、あの誰よりも輝いて見える美しい微笑で、 ふわりと笑った。 「もう、何処にも行かないで。セヴィ」 の唇が、甘く密やかに美しい弧を描く瞬間に悟る。 我輩は底の無い泥沼の中で醜くも泥まみれになりながら、ただ無駄に足掻いていただけで、結局は何かを成し遂げることなど出来るはずもなかったのだ。 『誰も、逃げきることは出来ない。それは、セブルス。お前も同じだ』 ああ。ルシウス。そうだ。お前の言った通りだ。 お前は今、滑稽な我輩を嘲笑しているのだろうか。 それとも。 |