開くべきではなかった。扉を開けた瞬間に、何故だか本能で悟った。 紅の色をした汽車の中にある幾つものコンパートメント。 その内、五両目三番目の一室には、一人の少年が不思議な程落ち着いた様子で静かに佇んでいた。 彼一人で僕に何かが出来るというわけでもないのに、心臓は五月蝿いほどに警鐘を鳴らす。 理性の届かない場所が、暗に、もう手遅れなほどの過ちを犯してしまっていたことを教えていた。 後から思えば、その時すぐに扉を閉めて、何もなかったことにして、取り合えず何も考えずに走り去って、 そしてクラッブとゴイルのいる窮屈だがしかしあの妙な安心感のある場所へ戻れば良かったのだ。 そもそも、他の新入生を一人でからかいに行こうなどという愚考を、思いつかなければ良かったのだ。 そうすれば、例え心の一番奥底で複雑に絡み合っている歯車が修復不可能なほどに噛み違ってしまったとしても、何かしら手の施しようがあったのかも知れない。 だけど、この時の僕にはそんな悠長なことを考えられる程の余裕は無かった。 魅入るように、目の前にいる少年を見つめる。 血液が物凄い速さで体内を循環し、指先が冷え、頭が熱くなって、米神が締め付けられたように痛くなった。 口の中がからからに乾いて、舌が下顎に貼りつくような感覚に見舞われる。 それでも、拷問のように彼から目を離すことが許されない。何故だろう。 少年が、ゆっくりとこちらを振り向く。目と目が、双眸と双眸が、視線と視線が、ぴったりと重なって触れ合って絡み合った。 音も無く、背景も無く、色も無く、あるのはこちらを若干驚いたような表情できょとんと見つめる少年の姿。 その姿に僕は、ああなんて綺麗な人なんだろう、と思った。 ふいに少年が目を細めて笑い、突如大きな音が耳を劈く。――汽笛だった。 虹色の煙を吐き出すその音は、寸前まで無音の空間にいた僕の耳に入れるには、少し大きすぎる音のような気がした。…何よりも、野暮ったい。 「――」 少年の口の動きだけでは、二回目の汽笛に掻き消されてしまった言葉はわからない。 僕が困ったように眉を寄せるのを見ると少年は再び微笑み、ゆっくりと言葉を繰り返す。今度は、彼が何と言ったのか理解できた。 「この荷物、上に持ち上げるの手伝ってくれる?」 幻のように儚く見える少年が発する第一声としては、それは何処か平凡すぎた。 そのせいで、というわけではなかったが、溢れていた緊張感が穴の開いた風船のように縮んでいく。 僕は軽く息を吐き出し、社交辞令で唇の端を持ち上げると、少年に向かって微笑みながら頷いた。 「ああ。ちょっとそれ、貸して見ろ」 少年は素直に荷物を差し出し、僕は身長が足りなくて荷台に届かなかった彼の代わりに、やや爪先立ちながらもそれを網の上に押し上げた。 「これで良いか?」 「ありがとう」 間近で聞こえた感謝を示す甘くて柔らかな声音に、心臓が耳まで届く程大きな音で跳ね上がる。 微かに香ってくる香りは、香水のように人工的なものではない、けれども胸をゆったりと満たしていくような、華やかなハイビスカス。 手をついた座席が無機質にぎしり、と嫌な音を立てた。 「お前…」 僕が何か言おうとする前に、少年は座席にあった彼のもう一つの鞄を探り、小さな袋を取り出した。 白いラッピングに薄緑のリボンがかけられたそれは、男性が持つ物にしては些か可愛すぎる。 それでもこの少年が持っていると、左程違和感はない。寧ろ、しっくりと彼の掌に収まっている。 「はい、これ。お礼」 「…何だ?」 「飴」 どうも、子供扱いされている気がした。 対等に見られていない扱いが腹立たしくて、思わず乱暴な口調で彼の好意を拒否する。 「いらない」 「…甘いもの、嫌いだった?」 怒るでもなく沈むでもなく…帰ってきた彼の反応は、何かが微妙にずれている。 それに、残念だと言いながら包みを鞄に仕舞う姿はちっとも残念そうには見えなかった。それが余計に僕の神経を荒立てる。 しかし、正体の良く分からない不快感で満たされていく胸中とは裏腹に、 僕の視線はまるで悔やみ名残惜しむかのように、飴の入れられた袋が鞄に納まる様子をいつまでも追い続けていた。 飴が、欲しかったわけではない。多分僕は、この少年との繋がりが欲しかったのだ。 「ねえ」 「え、あ…な、なんふぁ?」 唐突に浴びせられた予期せぬ少年からの問いかけに、呂律が回らなくて僕は舌を噛んでしまった。 鋭い痛みが柔らかな口内で上がる。恥ずかしさと苦しさで顔を火照らせながら、僕は咳き込む喉を一生懸命抑えようとした。 目の前の少年は一瞬他人事のように小さく笑ったが、すぐに背中をさすって大丈夫? と尋ねてくる。 背中越しに当てられた彼の掌は意外な程に心地良かった。 苦しんでいる振りをして、少しだけ長めに俯き続ける。 その時彼は、どんな表情をしていたのだろう。 「大丈夫?」 「…ああ」 まだ若干頬に熱りを残しつつも、僕は平然を装ってそう答えた。良かった、と少年は嬉しそうに言う。 彼の表情に浮かんだ笑顔があまりにも清廉で無邪気なものだったので、何故だか僕の 心臓が針で刺されたようにちくりと痛んだ。 「…で。何だ?」 「え? …ああ、その…前に会った事、ない? 俺達」 「…ない」 息さえ止まりそうになるほど静まりかえった一瞬の間の後、僕は殊更きっぱりと否定した。 もし過去に彼に会った事があったなら、覚えていないはずがない。 目の前にいる少年は、そうとわかるほど他人とは違っている。 だが断定してみせる僕とは対照的に、少年はしきりに頭を捻って、彼の頭の中で展開されているであろう 『僕と過去に会ったことがある』という可能性を諦めようとはしなかった。 「何か…どっかで君の顔、見たことあるような気がするんだよねー…」 そう言って彼は眉間に皺を寄せながら、躊躇うことなくじつとこちらに顔を近づけてきた。 端正な顔立ちが酷く緩慢な動きで息が鼻先を擽るほど間近に迫る。僕の身体は、一杯一杯で真っ白になった脳からの指令を拒絶するかのように緊張で硬直して動けなくなった。 僕は少年の薄く開いた形の良い唇へ目を向けないように、必死に視線だけをあらぬ方向へ逸らして吐き捨てるように慌てて適当な返事を返した。 「もっ…もしかしたらパーティーで会ってるのかも」 「パーティー?」 「色んな屋敷で開かれるパーティー。…よく、父上に連れて行って貰っていたから」 「君のお父さんの名前は?」 「ル、ルシウス・マルフォイ」 その名前を口に出した途端、まるでスイッチを入れたかのように、少年の顔が明るく輝いた。光を反射してきらきら光る双眸が、それを一層際立たせる。 「ルー…シウスさんの息子か! 言われて見れば。そうか、面立ちがそっくり!」 「…父上を知ってるのか?」 変な所で父上の名前を口に出した少年の発音がずれたことも気にかけることなく、僕は急いで彼に聞き返した。 次第に、そして急激に、鼓動が興奮で速まって来る。 僕とこの少年は、繋がっているのだ。 例えそれが父の名前であろうとなんであろうと、構わないと思った。 「うん。この間もにゅうがくと…ええっと。何度か、声をかけてもらったことが…」 「そうか」 少年と共有出来る話題が出来たことが兎に角何よりも嬉しくて、僕はこの時彼が垣間見せた幾つもの挙動不審な点を見逃してしまっていた。 別に気付いていたからといって、もうそんなことどうでも良かったのだけど。 「そういえば、お前の名前を聞いていなった」 「だよ。・」 「僕は、ドラコ・マルフォイだ」 ドラコ。彼の唇から発せられた僕の名前という旋律は、今まで聞いたことのあるどんなメロディーよりも美しくて誇らしかった。 優しく微笑みながら差し伸べられた掌の感触は、もうきっと一生忘れることなど許されない。それは何処か、宗教的な崇拝心に似ていた。 「は今年で何年生なんだ? 3か? 4か?」 「学年? え、なんで。違うよ。…俺はまだ一年だよ?」 「そうなのか? てっきり、年上かと」 「何でさ」 (恋に落ちるのは簡単で、けれど恋に堕ちたと自覚するのは難しくて) 錆び切った歯車がまた、ぎしり、と嫌な音を立てた。 |